【ARCHIVE】 トリイカ! #8「わが青春の怒りとカネ」(2013年7月日経ビジネスオンライン)

2024年02月08日

※タイトルにあるように2013年の記事であること、さらに文中の自分の経験は1984年の出来事である点にご留意ください。現在の、そしてすべての出版社・編集部にそのまま適用できる話とは考えておりません(もちろん、なんら変わっていない部分もあるでしょうけど)


30年以上もマンガ家をやってると(驚かないでください。やっているのです)積極的に思い出したくない、思い出して書いたところで、評判は落としても、本業の営業的にはあまり得にならない過去もある。

マンガ家は、才野茂と満賀道雄がたくさん仕事を受けてしまったはいいが帰郷後に完成することが出来ず干されてしまったあのエピソードのようなトラウマを、誰しも心のまんが道袋に抱えているものなのだ。

これは私の場合に限った話だが、思い出したくないのは、それが単に腹立たしい話だからではない。思い出した瞬間に「あああああ」と声に出して頭を掻きむしりたくなるような、自分の若気の至りや無知や思い上がりや愚行もまた、高田社長の筑肥訛りの甲高い声とともに漏れなくワンセットでついてくるからだ。

あらゆることを笑いで相対化するのが信条のギャグマンガ家ではあるが、それでもなかなか重すぎて、うまくギャグに落とし込めない種類の若いころの愚行もある。ポール牧師匠だか誰だかがいったように「青春が美しいなんて誰にも言わせない」のだ。

先週末のマンガ方面のTLで、ヤマザキマリさんが民放のバラエティ番組で「(配收58億円の)『テルマエ・ロマエ』の原作料は100万円」と発言したことが話題になった。ツイッター以外でも幾つかスレッドが出来ていたが、ご本人のこの発言に関するつぶやきは離日前のこの一言(リンク)だけ。これもまた数多くリツイートされていた。マンガ方面に限らずとも、ツイッター全体でも目立つリツイート数だったと思う。

この発言とそれをめぐる反応は、色んな側面から語ることができる。

まず大きくは「作品は誰のものか」という古くからの命題がある。

話を拡げれば、出版社や映画会社(実質テレビ会社ですが)という矮小な単位でなく「描かれた作品は作者のものか読者のものか」といういつものテーマが姿を現す。

人気作品の場合はしばしば後者の比重が大きくなる。

「その作品にとって、もっとも幸福な終わりのタイミングで終われない悲劇」もそうだし、手塚治虫の自身による過去作の度重なる改変が批判されたり「ディレクターズ・カットに名作なし」と云われたりする。

人はどうしても最初に接したものを親と思ってしまうものだ。アヒルの子もトムさんを親だと思うのである。まったく同時に二種類のバージョンが提示されれば冷静な比較判断が出来るかもしれないが、時間差で見たものは、たいてい最初の感動のほうが勝ってしまう。

そういう既に描かれたものとの比較ならまだわかるが、ときに読者は勝手な妄想で組み立てた、自分にとって理想の「描かれていない話」と比較して作者にダメ出しを始めたりするので色々大変だ。かくいう私も、自分が描くときは前者の、読むときは後者の比重がつい大きくなるので、あまり大きなことはいえない。

ちょっとテーマを拡げすぎた。

哀しいかな多くの人が反応してしまうのは、やはり金銭関係の話だろう。

「哀しいかな」と書いた。番組での発言と、さらに作者のツイートをよく読めば、作者の怒りや哀しみが金額の問題ではなく(私にいわせれば金額も大問題だなのだが)別の所にあるのは明白だ。

具体的には、家族が映画のヒットで受けるあらぬ誤解であったり、(特定出版社ではない)日本のマンガ出版全体の馴れ合い的慣例であったりするのだが、どうも反応を見ているとその部分はなかなか理解されないようだ。

いや、プロである以上、金銭の話は本当はいちばん大事かもしれないが、このコラム1回分の記述では事の本質をよけい見誤らせることになりかねない。引用された発言のみをWEB上で見て「そうはいっても映画のおかげで部数が増えて印税が入ってくるのだからいいじゃないか」というような頓珍漢なレスがつくような現状では、これもあまり話を拡げるのは得策ではない。そもそも、もらってもいない金銭の話をされるのがイヤだと本人がいってるのに、金銭の話をするのも気が退ける。

気は退けるし、本人がこれでもうおしまいといっているのに、むしかえす形になるのは本意ではないが、似たような経験を持ちながら、波風を立てたり仕事が来なくなるのを恐れて……あと自分の過去の恥を恐れて言及しないのは、同業者である彼女の勇気に対して申しわけが立たないような気がしたので、後乗りの心苦しさを感じつつも、自分の体験したケースを書きとめておこう。

それは「僕の場合は○○円でした」という金額の話でなく、当時の原作者としての「気持ち」の話だ。ヤマザキさんの怒りや哀しみの本質も、実はそこに大きく起因すると勝手に推測する。

「ちょっと待ってください」

「はい、そこの人」

「とり・みきに映像化されるようなヒット作があったんですか?」

とあちこちからツッコマれそうだが、30年以上も描いていれば、そういう突発事故のような経験もある。デビュー後4本目の週刊連載作品が、テルマエの映画の親会社と同じテレビ局で1984年に実写ドラマ化された。

放送時間枠は午後7時のゴールデンタイムで、80年代はまだこの時間帯に幾つかあった30分のビデオドラマだった。1クールより少し長い全17回。ただしナイター中継での中断が多く、ネット局も少なく雨傘番組的なイメージも強かった。放映がある日でも、周りの友人達はみな裏番組の『宇宙刑事シャイダー』のほうを見ていた。

当時はDVDなどのソフト販売もなく、動いたお金は現在の著名なヒット作とはまるで比較にならない。毎回の原作料が支払われただけだが、ドラマ自体もあまり注目されなかったので、金銭面に関しての不満は、正直なかった。

ドラマの内容に関しても、過剰な期待は抱かなかった。

マンガ家にも人によって色んな考え方がある。原作のイメージを壊してほしくないために、可能な限り映像の現場にコミットする人もいれば、映像はその映像作品の監督のものなので、原作は素材としてご自由にお使いください、というスタンスの人もいる。

原作とテイストが全然違っても作家性の強い監督が作る作品なら、私はそっちのほうを見てみたいと思うが、しかし、これはあくまで監督を信頼できたときの話だ。。最悪なのは、どっちにも振れない中途半端なケースなのだが、マンガ家側にもまるで無頓着に現場におまかせでこだわりのない人もいるから、どっちもどっちかもしれない。

現在ではメディアミックスを考え(とくに実写でなくアニメ化の場合は)原作とのイメージ調整は慎重に行われるケースが多いが、当時は実写どころか、アニメにおいてもまだまだ原作の絵柄や描線や「ノリ」を再現するのはむずかしかった。ましてや実写ドラマは「違うものになって当然」という暗黙の風潮だった(実写に関しては、いまもかもしれないが)。

だから、いまさら出来に文句をつける気持ちはない。

ショックだったのは、ドラマ化が決まっていく過程でのさまざまな出来事だった。

編集部はあきらかに舞い上がっていた。

基本的に「ドラマ化おめでとう。これで単行本も売れるね。ついに君もメジャーだね」という空気が、編集部からも局側からも同調圧力としてビンビン伝わってくる。ドラマ化に反対するような要素はすべて悪と見なされるような、そんな雰囲気だ。

色んな交渉ごとでも、編集部が作家よりも局側にまず気を遣っているのがわかる。こちらは「えっこの人たちはこっちの味方なんじゃなかったの」という不信感が増していく。

交渉が進むにつれて、局側の言葉の端々から、このドラマ化のプロジェクトが、まず主演の女性歌手を売り出すための企画であり、適当な原作はないか、とリサーチした結果、このマンガが浮上した、というような経緯が伝わってくる。そういうことを当の作者にいうのに、あまり躊躇もない感じだ。

こういう順番は、実は今もあまり変わっていないと思われる。

テレビドラマは、分刻みでレートリサーチされた人気俳優の1年先のスケジュールを押さえるところから始まるからだ。数字を取れるタレントを多く押さえられるプロデューサーがよいプロデューサーであり、ブッキングの時点ではドラマの内容はほとんど決まっていないことも多い。まず出演者ありきで、原作選びはそのあとの話になる。人気マンガは、基本のアイデアもストーリーもキャラ立ても画作りも既になされていて、話題性も大きいので格好の原作素材になる。

そんなわけで、いちおう対応は建前的に作者を立てている感じで慇懃なのだが「原作者だけ蚊帳の外」的な疎外感と不信感は打ち合わせのたびに膨らんでいった。

よく、最初にそんな契約書を結んだのだからしかたがない、という声を聞くが、法律上はまったく正論でも、実感としては多くのマンガ家が「そうはいうけどね、あんた」と思うのではなかろうか。

とにかくまだ世の中の仕組みもよくわからないうちから、寝るヒマもなく原稿を描かされ、編集条項に疑問を感じても「○○先生も××先生も、全部これでやっているんだから」といわれては、なかなか改変の動議など提出できるものではない。

そうでなくとも、マンガ家は本当は作品のことだけを考えていたい生き物なのだ。わずらわしい金銭面や権利関係の交渉は、エージェント的な立場の人にまかせたい。しかし新人ではまず、その予算がままならない。というか作家が「この件は弁護士にまかせたいのですが」というと、十中八九、編集部は困った顔をする。ひどいときには激怒する。もっと下手をすると干される。

さらにまた、上記は一応、事前に契約書を検討する前提で話しているが、出版社によっては、単行本が店頭に並んだころに「これにハンコを押して」と契約書を送ってくるケースがいまだに横行しているのだ。

主役を演じるために、トレードマークのポニーテールを切ってショートにしてくれた主演の彼女や、それなりに面白いメンツの共演者に罪はない。しかし、結局、このドラマは局的にも彼女サイドから見ても成功したとは言いがたかった。彼女や彼女のファンにとって、この企画は、はたして嬉しかったのだろうか?

とにかく私はこのテレビ化の過程でずいぶんと疲弊した。

いま単行本を読み返すと、テレビ化が決まったあとの描線が、あからさまに力がなくなっているのが誰の目にもわかる。実際に描いているのが苦痛だった。こんな不幸せな気持ちで描いているマンガが面白くなるはずがない、と思った。

そういう気分でいるときに中途半端な知り合いに会うと「テレビ化おめでとう! すごーい!」とわけのわからない祝福をされ、疲弊はさらに進行した。

こういう「映画化やアニメ化を、マンガ家の上がりと勘違いしてるファン」はいまも意外と多い。映画化やアニメ化が発表されると、作者に速攻で「おめでとうございます」とリプライしてる人達だ。これがたとえ問題の少ない映像化であったとしても「おめでとうございます」は、ちょっと違うのではないか、と、いつも思ってしまう。

もちろん、すべてのマンガ作品の映像化が十把一絡げに同じように語れるわけではない。作り手がそのマンガに惚れ込んで、原作者も納得している幸せな映像化作品だって幾つもあると思う。これはあくまでも私のケースであり、それも20年以上前の話であることに留意されたい。

ただ、いまは改善されている部分もあるだろうが、その後の、後輩同業者のテレビ化にまつわるトラブルを聞くにつけ、実態はさほど変わっていないのだな、と思わざるをえないことも多い。

なによりも、この不幸せな気持ちが、身近で一緒に作品を作ってきたはずの編集部に理解されていないのがいちばん悔しく情けなかった。やがて私はモチベーションが完全に折れ、連載の終了を申し出た。「テレビ化が決まってこれから本が売れるというのに、いきなりこやつは何をいいだすのだ。信じられん」といわんばかりに、当時の編集長はあきれた顔をした。

説得はされたが、けっきょくその、けっこう人気のあった週刊連載は、それから単行本1巻分も描かずに終わった。

さて、立場を変えれば、このマンガ家にも多くの非がある。

当時の私は締切関係の素行が悪く、ネームが上がるまではなかなか連絡が取れなかった(それでも、それまで落としたことはなかったのですよ)。駆け出しということに加えて、そういうふだんの自分の行いの悪さがひけめとなり、こちらが強く主張できない要因になっていた。ここらへんが、たぶんヤマザキさんとは違う点だ。

精神的な軋轢は同じ出版社の月刊連載にも及んで、こちらは了承を得られないまま連載を終えるという暴挙に出た。これに関しては、弁解の余地はない。正統な責任を果たして、正統な主張をして、それから出ていくべきだった。

冒頭に述べた青二才ゆえの過ちだが、それくらい、当時の私は気持ち的に追い込まれていて、その場所からショートカットで脱出して違うところで自分の描きたいマンガを描きたい、と切望していた。当時の副編集長がやってきて「二度とこの世界で仕事はできないぞ」とすごまれたのを憶えている。

結果的には、そこを出た直後から、ありがたくも30年近く経ったいまもこの仕事を続けられているが、信用の回復には何年もかかった。というか回復できているのかさえ、いや、もともと信用があったのかさえ怪しいが、とりあえず、数年前のその雑誌の40周年のアニバーサリーにはお声がかかり、久方ぶりに当時のマンガの番外編をその誌面に描いた。楽しい仕事であったことを記しておこう。

歳をとって冷静に考えれば、編集部というか出版社側の行動は無理からぬところではある(嬉しくはないが)。なぜなら本来、出版社とはそういうものだからだ。

日本の場合は、出版社側の人間(編集者)が、そのマンガ家の代理人的な役割をも負う、というひじょうにいびつな構造になっている。マンガ家と同志的な関係を結び、編集会議や、対外的な折衝においてはマンガ家側に立ち、マンガ家に対しては出版社の人間の代表として接する、というようなダブルスタンダード。

これは文芸の作家と編集の関係がそのまま引き継がれたもので、そうした愛憎うずめくこじれた恋愛のような関係性の中で、過去に多くのすぐれたマンガ作品が生まれてきたことも事実だ。名物編集者とマンガ家のエピソードは枚挙にいとまがない。

だが、もうそろそろ、このドメスティックなシステムは、ロマンとしてはともかく、国際的な現実のマンガ出版で使用するには破綻が来ているのではないか、と思う。実際、担当編集から作家側のマネージメントやエージェント業に移行する人も、増えている。

物事を対立項でしか考えられない人はいて、マンガ家を支持するあまり特定出版社を敵視するおっちょこちょいが今回もいたが、そういうことではないのだ。

『テルマエ』の成功は、担当編集者の慧眼なくしてはあり得なかったことは、当のヤマザキさん自身が多くの場所で語っている。担当氏の天性の編集能力を評価した上で、彼女が憂えているのは、そういう日本独特のシステムに対してだろう。それは海外在住経験の長い、日本のマンガ界においてはストレンジャー的な存在であるヤマザキマリだからこそいえる問題提議だったと思う。

もちろん、同業者でも必ずしも賛同の意見ばかりとは考えないが、彼女の離日前のツイートは実にたくさんのマンガ家によってリツイートされ、同意や支持ツイートも多かった。それはちょっと感動的な展開だった。「ぶっちゃけ」の意義は大いにあったと思う。