【ARCHIVE】 過去ブログ「小山田いく氏のこと」(2016年3月28日)

2023年12月22日

僕のマンガ家デビューは1979年、第12回「週刊少年チャンピオン新人まんが賞」の佳作に入ったのがきっかけで、その年の暮れには最初の週刊連載が始まった。

そして小山田いくが同じ賞の佳作に入ったのは、同じ79年の第13回(同賞は1年に2度募集があり、僕が上期、彼が下期にあたる)。翌年から『すくらっぷ・ブック』の連載が始まった。かように同賞はなかなか受賞作が出ないまま、佳作に入った応募者を次々にデビューさせていたので「秋田書店は賞金を払いたくないだけじゃないか」と陰でささやかれていた。真相はわからない。

それはともかく、同時期の同雑誌デビュー、歳もほぼ同じ(小山田氏のほうが一歳年上)とあっては、いやがおうにも意識せざるをえない存在ではあった。

ただ、それは「ライバル視」というのとはちょっと違っていた。

僕はSFやギャグマンガを志向しており、小山田いくの描くマンガはキャラクターこそ2頭身から3頭身とギャグ的ではあったが、内容は皆様よくご存じの通り、青春……いやさらにその一歩手前の時期の、ちょっと甘酸っぱいエピソードがてんこ盛りに語られる、地方の学校というごく限られたコミュニティの群像劇だった。そういうわけで、僕は他誌で描いている同年代のギャグマンガ家たち、あるいはマンガ家ではないが同年代のSF作家こそ自分のライバル、と当時は思っていた。

しかし。

であれば無視しておけばいいものを、実際は僕は連載の中で(Wikipediaにすら記述がある)小山田マンガへのちょっかいやおちょくりを繰り返していた。ライバル視はしてなかったといいながら、なぜ。

いまなら当時の自分の気持ちを分析できる。

小山田いくが描いていた甘酸っぱすぎる、ちょっと照れるような中学生の話は、まぎれもなく自分の中にもあった要素だった。彼は小諸、僕は人吉という、山の中の、しかしやや文化度は高い似たような地方都市で育った。

だが、彼は地元在住のままマンガを描きはじめ、僕は上京した。けっして反芻したくない出来事も含む中高時代の蹉跌には決別して、描く物も現実の体験からは乖離したSFやギャグマンガを志向した。その時点で僕は自分からも作品からも彼が描いていたような属性や要素を意識して排除した。本当はさだまさしも聴いていたのに山下達郎やムーンライダーズしか聴いてないようなふりをした。

その自分が排除したがった要素を、小山田いくは葛藤も臆面もなく(と、当時の僕には思えた)肯定的に描いていた。人は自分と正反対の人間よりも、実は自分とよく似た、しかし自分が隠したい属性を堂々と誇示している人物を、もっとも嫌ったり過剰に意識したりする。

こうして僕は小山田いくの(実のところ自分の)甘酸っぱさを、作者本人へのからかい的なギャグでなんとか中和しようとした。照れずにああいう話が描ける同年代をスルーできなかった。

子供っぽい話だ。

今から思えばまだまだ二人ともアマチュア気分が抜けていなかった。若気の至りというしかない。いや「二人とも」というのは正確ではない。ちょっかいはもっぱら僕のほうから最初に仕掛けていた。小山田いくは、なかばしかたなくつきあってくれていたのだと思う。

作品の内容は大甘だが、クラス全員のキャラ付けをしっかり行い、毎回主役を変えて群像劇を維持していくというのは、実は極めて大人の作家の作業といえる。彼の作品の甘ったるさを「大人になった気で」揶揄していた僕のほうが実のところずっと子供だったのだ。

とはいえ、こちらが描いていたのは節操のない何でもアリのギャグマンガだったから、そういう楽屋落ちやメタ的なちょっかいもギャグにしてしまえるところがあった。しかし彼のマンガは先ほど述べたようにギャグ志向のマンガではない。こちらのちょっかいへの下手な呼応は作品を壊しかねない。だいぶ迷惑をかけてしまったと思う。

もとより本当に嫌いな作家・認めていない作家であれば、最初からかかわりたくも絡みたくもない。そういうことを仕掛けたのは、それをシャレと理解し受け止めてくれる度量があると踏んだからで、これまた一方的な、ある意味ずるいこちらの甘えであったろう。

迷惑といえば、彼と直接会ったのは生涯で一度きりだったが、それも今から思えば迷惑千万な会い方だった。

同じ雑誌の同期なのに一度しか会ってないのか、と驚かれる方もいるかもしれないが、少なくとも当時のチャンピオンでは、新人マンガ家が同じ雑誌に描いている他のマンガ家の連絡先を知りたいと願い出ても編集部はなかなか教えてくれなかった。

いまみたいにSNSが発達している時代では、そういう謎の配慮だか妨害だかは意味がなくなってしまっているけれども、当時はそういう風潮であり、秋田書店はとくに古いマンガ出版社のノリが残っていた。好景気に乗って他社では開催され始めていた年末年始の派手な謝恩会もなかった。マンガ家どうしの縦の繋がりも横の繋がりも持つ機会はなかったのだ。

そういう状況の中、かなり無理をしてとった夏休みで、僕は友人たちと長野県斑尾のペンションに数日間遊びに行った。その帰りの国道18号で小諸を通過する際、まったくもって突然思い立ち、僕はアポもなければ手土産もない状態で、いきなり小山田邸を訪ねたのだった。

小山田邸の場所はなんと駅前交番に張り紙がしてあった。今でいう聖地巡礼の走りのようなことが起きていて交番で道を尋ねるファンが多かったためだ。現在では考えられないような物騒な個人情報の公開だが、当時はまだそういうおおらかな時代ではあったのだ。

小山田さんは仕事中であり、ノーアポでやってきた同業者(とその友人)に、あきらかに迷惑そうだった。無理からぬことである。手ぶらの客にそれでもお茶とお菓子を出してくださった。僕は進行中の原稿の一コマに落書きをし、ツーショットの記念写真を一枚撮って早々に退散した。

次にお会いしたら、30年前の、あの無礼と狼藉を詫びよう。
ずっと、そう思っていた。

まだ思っている。

1982年7月 小山田邸前で
1982年7月 小山田邸前で