星敬さんのこと

2019年12月08日

星敬さんの訃報。先日「ふと思い立ち」こういう日記を書いたばかりだったのだが。

最初の読み切りマンガが商業誌に載ったのは1979年の夏。東北沢と池の上から等距離の東大の宇宙航空研究所(JAXAの前身。跡地は現在東京大学先端科学技術研究センターに)の隣の風呂ナシ共同トイレ四畳半のアパートに住んでいた頃だった。その年末には早くも連載を持たされたので、もう少し広くて便のよい、そこからどちらの線でも一駅の下北沢の六畳の1DKに引っ越した。あいかわらず風呂ナシの物件だったけど。

まったくの偶然だったが、その部屋から歩いて2分のマンションに、当時豊田有恒さんが起ちあげたSF関係のクリエイターの事務所「パラレルクリエーション」が入ることになった。星敬さんはその現場責任者みたいな立場だった。

星さんと初めて会ったのは、実はその少し前で、小松左京研究会の発起人・土屋裕さん(故人)から紹介されたのだったと思う。そのときは軽いご挨拶程度だったが、先述の経緯があって、僕は社員でもないのにこの近所の事務所に、他所では出来ないSFや怪獣やアニメやアイドルの話などにうつつを抜かしに日参することになる。

話し相手は、もっぱらそこに集う同じようなメディア体験を経てきた同年代の絵描きや作家やライターがメインで、事務所のまとめ役の、僕らよりちょっと年上の星さんとはあんまりそういう突っこんだ話をしたことがない。個人的なおつきあいもお互いに深入りしないもので、僕は星さんのプライベートなことはほとんど知らない。

しかし、我々のそういうサロンというかモラトリアムというか、一種トキワ荘的な空間は、コミットはしないけれどいつもニコニコしてそれを許してくれていた星さんの寛容さがあったからこそ保たれていたのだ、と今あらためて思う。あれが「もう、お前ら社員じゃないんだからとっとと帰れ」というような怖い人だったら、現在も続く当時の友人達とのつきあいも、彼らと組んだ仕事もなかっただろう。

そのことに深く感謝したい。