若山弦蔵さん
若山弦蔵さんは(日本の領有下にあった)樺太大泊町生まれ札幌育ち。NHK札幌放送劇団から声のお仕事に入られた。
テレビ以前のラジオドラマ時代、NHKとTBS(当時はKRT)は専属の劇団を持っており、テレビで外画番組が始まると、まずこの放送劇団出身者が今のような形態の吹替の仕事を担うようになる。若山さんはKRT「ローン・レンジャー」(生放送)とNTV「モーガン警部」(録音)で主役を担当し、どちらも大人気番組となった。
50年代後半には外画番組の(数的な)最盛期を迎える。この時期に多くの若手新劇俳優が吹替に参入するが、その意味では若山さんはテレビ黎明期からの生粋の「声優」といえる。新劇出身の方々は初期は吹替仕事に負い目を感じ「声優」という言葉を嫌ったが、若山さんはむしろ声の仕事にずっと誇りを持っておられた、と私は認識している。
その後も「バークにまかせろ」「スパイ大作戦」「鬼警部アイアンサイド」等の人気番組が続き「声の出演:若山弦蔵」というクレジットは世にひろく知られることとなった。当時はまだ日陰の存在だった吹替の仕事に光を当てた功績は大きい。
長尺物=洋画劇場全盛時にはOO7シリーズのショーン・コネリーを担当。正確には日高晤郎氏と交替しての二代目だったが、若山コネリーのフィット感は大きく、以後他のコネリー作品も担当するようになる。実際はフィックスといえるほどのカバー率ではないのだが、若山弦蔵といえばショーン・コネリー、というイメージの方は多いのではないか。
こうしたトップランナーの自負ゆえか、若山さんは声の仕事への外部からの揶揄には毅然とした態度で反論される一方、業界内部に対してもたいへん厳しいご意見・ご発言の多い方だった。
事務所にも属さずずっとフリーのお立場で、新劇出身の多くの方がスタジオ現場での共演声優との呼吸や絡みを重視される中「声優が芝居の相手とすべきは画面の中の相手俳優」と、複数トラックの録音が可能になって以後は早くから別録りを希望され実践されていた。
別録りの理由はけっして建前ではなくて信念であったとは思うけど、ときに不当な配当改善のストやデモも行った日俳連所属の俳優さん達と、フリーでギャラランク外で、かつ歯に衣着せぬ物言いの若山さんとの間には現実に齟齬や軋轢もあったことだろう。
逆に若山さん側からすれば「ギャラをダンピングしても役を欲する者がいたり、同じ劇団や同じ事務所で配役を丸抱えしようとする動きがあったり、吹替の仕事を卑下し収録が終わったら台本を棄てて帰るような風潮が当時の新劇人にはあり、それが嫌だった」ともおっしゃっている。
しかし、そういうスタンスであっても(実際に羽佐間道夫さんや故 大塚周夫さんのお話をうかがうと)新劇出身のベテラン声優は皆、氏の吹替における技術と演技力、工夫、そして独特の味を高く評価し、尊敬し、目標としていたことがうかがい知れる。
羽佐間さんは一時、若山さんと同じ太平洋テレビジョン(日本初の吹替制作エージェンシー)に籍を置いたが、労働争議後、俳協を設立し声優界の待遇改善に尽力される。若山さんはフリーになり袂を分かった形になったが、私が羽佐間さんとお目にかかるときはいつも「もう一度若山弦蔵を巻き込んで仕事を一緒にしたいんだよ」と語っておられた。
大塚周夫さんにお話をうかがったときも「別録で行った共演作品を完成後に見返したら、オレの芝居と若山弦蔵の芝居がピタリと合ってたんだよ。嬉しかったなあ」とおっしゃっていて、尊敬の念が伝わってきた。
そんなわけで音声業界においては若山さんは孤高の、しかし一種「怖い」存在とされていたようだ。実際、吹替のインタビュー本を作るときも「若山さんにインタビューに行ったけどろくに話してもらえなかった」という声も漏れ聞こえてきた。しかし若山弦蔵抜きの『映画吹替王』はありえない。できるだけ入念に下準備をしたのち取材を申し込んだ。
若山さんのご指定は新宿のホテル地下の軽食&バーの店で、お一人でお見えになった。おそらく最初は短時間で片づく類の軽いインタビューと思われたのだと思う。話を始めて20分ほどで(店がうるさかったのもあって)私は編集者にホテルの一室をとってもらうようお願いし、若山さんの同意も得られた。
場所を移し、若山さんのお話も乗ってきて、取材は当初の予定をオーバーして2時間近くに及んだ。それが『映画吹替王』最終段のインタビューである。のちに矢島正明さんから「源蔵さんとのおつきあいは長いけど僕も初めて知ることがあった」とのお言葉をいただいた。本業ではあまり大した作品は残せていないが、この対談を収録出来たのは、自分の仕事の中ではちょっとは価値のあることだったのではないかと思っている。
その後FOXの「吹替の帝王」サイトでも池田憲章氏とともにお話をうかがう機会があったが、ディズニーのFOX買収後、このインタビューはサイトごと削除されてしまった。ダイジェスト版がここに残っているのでよろしければお読みください(オリジナルはもっと辛辣な部分も多いです)。
いつも通り年賀状もいただき、今年に入ってからのラジオのお仕事もあったので、ご高齢とはいえ訃報には虚を突かれた感じだ。
ちなみに早稲田大学演劇博物館には若山さんが寄贈した約1万冊の吹替台本が保管されていて閲覧できる。どの台本にも若山さん手書きのメモがびっちりと書き込まれている。機会があったらぜひご覧になってください。